料理人と信仰

信仰というものをどれだけ理解している人がいるだろう

 

そもそも、日本人に信仰はあるのか?

 

自我が目覚めた頃から、いやそれ以前からきっと、一種の生きにくさを感じながら、それは違和感として、劣等感として、時には怒りややり場のない気持ちとなって自分を動かしてきたような気がする

 

人は、何かを信じて生きている

 

もし信じられるものがなければ、人は明日が来ることさえ待ち望めないだろう

 

だが社会とは、信用で成り立ちながらも、ごく当たり前にそこに存在している、空気のようなものだ

 

それを疑わない人は、そもそも初めからそれを信じているということだ

 

それが悪いことではないと思う

 

私は疑いを持ってこの年まで生きてきた

この年になってもなお、疑いを忘れることはない

 

ありとあらゆるものを疑い、自分でさえもその俎上に上げない日はないと言って差し支えない

 

疑いを持たない人からすれば、それは非常に生きづらいと思われるかもしれない

 

事実、その通りだと思う

 

何故、疑う必要があるのか

 

そんなことを考えてみたとしても自分には意味がなかったのだ。私には疑うことこそ生きることであって、疑いを持たずに手ぶらで歩いていくことなど考えもつかなかった

 

そしてずっと抱えている生きづらい気持ちを、なんとかごまかそうと生きてきた側面も否定はできない

 

どうやったらそこから逃げられるのか、どうやったら疑わずに気楽に生きていけるのか

 

あらゆることを試し、あらゆるものを傷付け蔑ろにし、自分もさることながら他人をも巻き込み破壊し、幾度も拒絶され拒否し、幾度も認められながら幾度も手放し、絶望の果てに希望を見出すような繰り返しの中で

 

辿り着いたのは結局信仰だった

 

私の信仰はまだ自分自身を取り込むまでには至らぬ

 

だがおそらく半分くらいは取り込んでいる

それでいいと思う

 

変化の余地は残しておかねばなるまい

確固たる信仰を備えることが人間の最たる幸せとは思わないからだ

 

この変化に富む秩序の中に生きている我々は弱く脆いことを理解しなければ成立しない

 

もし変化せず恐れることもなく疑うこともなければ、それはもはや神と呼ばれて差し支えない

 

だがそんな人間はどこに存在するだろうか

我々は不完全であるがこそ美しい生き物である

 

だから疑う

不完全なものは常に疑われることを代償として変化をし続ける自由に満ち溢れている

 

その幸福に気付かないものは虚しく

その可能性を信じない者は幸福にはならない

 

信仰とはそういうものだ

 

私は世の中に受け入れられないことに苦しんだのか

それとも世の中を受け入れられないことに苦しんだのか

 

私は信仰の無い自分自身を疑い続けた

だから世の中のあらゆる信仰を疑った

 

そして自分を殺し続けた先に

ふと初めから伸びているはずの一本の蔦を見つける

 

そうか私は結局それを手にしたいがために

 

信仰とはそんなものかもしれない

それは常識と呼ばれたりもするだろう

 

明日が変わらずに来るという保証は本当のところどこにもない

刹那を信じて生きていける人はきっと少ない

 

だが明日はやってくる

寝ていてもやってくる

 

刹那の祈りが明日に届くことを信じる力

 

それはどのように担保されるのか

 

社会主義でも民主主義でも達成されないだろう、人間の本来の自由は、信仰にこそ担保されると思う

 

何を信仰するかということだけだ

私は料理人で良かった

 

私は人間より料理の世界で生きてこれた

そして料理から人間を学んだ

 

今持っている信仰の根本部分は、料理を通して形成された

 

私は自分の料理を疑わない

疑う部分もあるが

それは自分ではなく他人であり食材に対してだ

 

私は自分の手が自分の料理を作り出すことを疑わない

どうやってもそれは私の味になるからだ

 

それに気付いた日から私はきっと幸せだ

あとはその幸せをどう維持していくかのことだ

 

私の信仰は疑うことで維持されてきた

だが私の作るものは疑いようがない

よって私の信仰はもはや

疑いを持ってして揺るぎようのないものとなった

 

これが恐らく私の生きるということだと思う

加計問題はいつまで続くのか。

森友学園は頭のおかしい人であったから事態はいつのまにか収束していたが、加計問題はやたらとマスコミ野党が喰い付いて離れない現状である。

 

要するに、あんた知ってたんでしょう?と言いたいわけなんだろうが、その時点でもう弱いと思うわけで。

 

だって、具体的な献金とか汚職とかそういう問題じゃないわけでしょ。森友のときは寄付金として100万円という金額が出ていたけど、あれも逆ですよ。総理が100万円もらって頼まれたんならわかる。あれが真実かどうかも定かではないけど、そもそも逆ですよ。

 

加計問題をいつ知ったのかが、1月20日かどうかなんてどうでもいいんですよ。1月10日だとしても、何が変わるのかっていう。

 

そもそも今治市はずっと獣医学部新設を目指して準備してきた。それは加計も安倍も関係ないわけで。今治市はずっとこの問題をやってきた。そのことは国会答弁でも既に明らかにされてるわけで。けどマスコミは報道しない。

 

確かに、関東地域からすれば獣医学部なんて必要ないでしょう。既存の大学で対応できていると思われている。けど今治市は四国です。新幹線も通らない島国の、いわば僻地ですよ。だけど例えば鬼北町には美味しい雉があります。農家、畜産業は当然根幹産業の一部。狂牛病鳥インフルが起きたときに、それに対応できる体制を整えるには、獣医学部から欲するということになったんでしょう。

 

最初は相手にもされなかった。そして経済戦略特区という話が持ち上がってようやく今治市は光明を見出すわけで。そのときにようやく加計学園が出てきて、つまりこれは加計ありきというより今治ありきなわけですよ。加計も、安倍もあとからだと思うわけです。

 

けれど今治側の思いは報道されませんね。京都や新潟の話は聞きに行くのに、今治市は何も問われません。

 

加計ありきというより、安倍ー加計疑惑ありきの報道でしょう。疑惑にならない情報はいらないわけです。今治市が必要としていたとか、どれだけの時間をかけて準備してきたとかは関係ないわけです。

 

それで彼らは何を報道したいのかという。

 

疑問を呈ぜざるを得ません。そもそもそれを知っていたから何の問題があるのか。具体的な金の流れを指摘しているわけでもないのに。ただの疑い。しかも憶測に過ぎない。苦し紛れに出て来る言葉は、不自然だというだけ。

 

不自然なもんなんていくらでもあるでしょ。疑わしいものなんていくらでもあるでしょ。検察が動いてるんですか?特捜部が疑ってるんですか?疑ってるのはマスコミと野党だけなんですよ。

 

こんなに時間かけて集中審議やる暇あるのかな。それより野党は共謀罪の成立を何としてでも止めるべきだった。ちゃんとした仕事もできない奴らが揚げ足取りどころか重箱の隅をつつくような、しかも関係のないようなことに無駄な時間を使うことに、誰も呆れずに見てるのかなと思うわけです。

 

 

百万円の女たちという漫画

夜中にドラマを何気なく見ていて、なんだこれ?と思って調べてしまった。

 

百万円の女たち、という漫画。

 

私は本も漫画もほとんど読まない。読まないと言っても、習慣的でないというだけで、全く読んでいないわけでもないが、家に置いてある本は料理関係の本や雑誌が主で、漫画もあるにはあるが、恐らく世間一般のそれよりは少ないという自負がある。

 

若い頃はそれなりに読んだが、もう20歳を越えてからというもの、どんどんネットが進化してくれているので紙媒体を手に取ろうという気になれない。

 

だから、百万円の女たちも、漫画で全て読んだわけではない。

 

ドラマを見ていて何となく理解し、漫画は無料の立ち読みで、あらすじは他のサイトで説明されていたのでそれで大体わかった。

 

そういう、ちゃんと読まずに批評するようなやり方が褒められるべきではないことなのはわかっている。その上でこの記事を書いているわけだが、

 

最近はもうこんなので金になる時代なのか、というのが率直な感想だ。

 

ライトノベルが流行った頃に、本屋で手に取ってみて驚いた。小学生向けの本かというくらい内容が薄い。

 

漫画も、せめてどちらかはちゃんとしていればわかる。絵が上手いか、ストーリーが巧みか。そういうものが求められない時代なのか。エンターテイメントは、所詮大衆の暇つぶしのための消費文化に過ぎない時代なんだろうか。

 

主人公は小説家。謎の女たちとの生活。主人公は自分の小説では人を殺さないと決めているらしい。だが、主人公の周りの人間は殺されていく。脈絡のない人間関係と、繋がりのない他人同士の話。無理矢理、繋げているだけで、背景も何も無い。登場人物はそれぞれに個性的過ぎて、突拍子もない展開とその割に淡々とした主人公の性格は、それが何をオマージュとしているのかもよくわからない。

 

私が理解できないだけなんだろうか。荒唐無稽ですらある。

 

刺激があれば何でも良いのだろうか。耳目を集めるためなら何をしてもいいのだろうか。それともそれは通過点で、成長を皆が期待しているのだろうか。

 

そういうものを拾い集めないといけないくらい、この世界はコンテンツに飢えているのだろうか。

 

それならばそれでもいい。逆に、それで成立しているのだから非難のしようもない。ただ、それを選ばないというだけのことだ。

 

ネットの世界ではどんどん、普通の人が発信する時代になった。自分もくだらない文章をこうして上げている。インスタを見れば写真に溢れ、You tubeを見れば沢山の動画がある。テレビを見ていても、もうそこにおもしろいものがなく、むしろネットの方がまだ、おもしろいものに出会える可能性があるんじゃないかと思える。

 

きっと今はそういう過渡期にあるのだろう。既存のシステムから、ネットで直接的に世界中の人々から取捨択一される新たなシステムの中で、それは競争なのか共有なのかわからない状態が続いている気がする。

 

人工知能ニューラルネットワークと、この現代の情報共有ネットシステムは、少し似ているような気がする。しかしそれはきっと原始的なものなのだ。これが進化の過程なのだろうと思う。

 

確かに凄い人はいる。恐ろしく頭が良いとか、とんでもない技術を持つ人と言うのはいるものだ。それだけが本物と言うことは簡単だ。だがそんな人は一握りしかいない。

 

それ以外の人はどうするのか、ということだ。

 

インターネットをすべての地球上の人々に行き渡らせることは可能なのだろうか。そのとき世界はひとつになるだろうか。それとも世界は終わるのだろうか。

 

インターネットが知の共有を目指してそれを実現するとき、既存の社会のシステムは変化せざるを得なくなる。

 

パラダイムの変換もそう遠くない未来なのではないか。言語の問題もきっと、すごいスピードで解決されていくだろう。わざわざ英語や中国語を覚える必要はない。必要な表現が必要な形で共有されていくのだ。そういう時代が来てくれなければ困る。

 

あらゆる言語が混合して、新たな言語として共有されていく。あらゆる知見が、必要な形で提供されていく。その過程で、貨幣や信用取引や、仕事や生産や管理や教育が、どう変化を迫られるのか。まだ想像することも難しいが、恐らくそれが人工知能の結末に対する答えと同じものだろうと私は思うのだ。

 

人工知能の行く末に不安を抱く人は多いだろう。ニューラルネットワークの中で学習を重ねても、その過程はもう人間の手を離れてしまう。ブラックボックスと化した人工知能の思考は、コントロールしたい人間にとっては恐怖に違いない。

 

だがそもそも、人間だってそういう生き物のはずだ。自分たちが生きる為の行動が、自分たちの首を締めてきたことも少ないわけではない。

 

そうやって人間は知恵をつけてきた。

 

そして人工知能はもっと、遥かに人間よりも膨大な情報から正確な答えを導くことができる。目的さえ間違えなければ、人間よりもきっと失敗しないような気がする。

 

だから今こそ人間は手を取り合うべきなのだ。必要な人と必要なだけ、感情を共有して生きていくべきなのだ。

 

問題は、それを目的として理解をして、新しい世界のシステムを受け入れる人がどれくらいいるのかということだ。

 

その実現にあと何年、何十年、何百年かかるだろうか。

 

俺が生きているうちに、そういう時代になってくれれば良いのに。

絶望的な夢を見た日の朝は

絶望の深淵で夢を見る。

 

若い頃はそれが自分の人生だと思っていた。奈落の底はすぐそこにあって、気を許せばそこに落ちてしまう。だが、その深淵であっても夢を見ずにはいられない。

 

情緒不安定で好奇心に満ち溢れた青春時代だった。

 

今考えるに、この絶望の深淵というのは若き自分が作り上げた恐怖と臆病であった。

 

奈落の底とは、まだ知らぬ物事の深奥である。

 

恐怖が臆病を呼び、物事を深く知ろうと思い至らない。

 

これが若さの弱みであろう。

 

若さとは恐れを知らぬことであると言う。もちろんそれもなるほど妙味はある。だが、この年になると恐れる事も然程ないことも事実。

 

絶望の深淵は具現化して三途の川のような体力の衰えとして眼前に横たわり、夢を見る事ができる時間の残り少なさを思うばかりだ。

 

確かに若い頃は恐れを知らぬ。

 

恐れを知らぬとは、世間を知らぬということだ。

 

世間を知らぬから恐れを抱く必要も無い。世間を知れば、自分が周りからどう評価されるか、どんな落とし穴が掘られているか、鬱病患者が右肩上がりに増えていくように、絶望の波紋は広がる様に思えるものだ。

 

だが果たして本当にそうなのだろうか。

 

知識と知恵と、経験と学習を積み重ねて、北の国から打ち上げられたミサイルをも撃ち落とせるシステムが組めれば、恐れる必要も憂う必要もない。

 

私にはミサイルを撃ち落とす技術は無い。

 

だが、今でも夢を見ている。

 

そこは絶望の深淵ではなく、知識と経験に裏付けられた、確固たる自我の独立性の上に聳え立つものだ。

 

若さを取り戻したいなどとは思わない。

 

むしろ、前進しかない。

社会契約と説明責任

最近、知り合いの経営者さんと話していると「料理だけできてもそれだけではダメだよねぇ」という話題になった。

 

確かに最近は、教育の底上げがある意味では地道な成果を上げているし、インターネットによって知識へのアクセスもハードルは下がっているので、逆に言えばごまかしが効かない時代になったと思う。

 

つまり、美味しい料理が作れるだけでお店が上手くいく時代では無くなったということだ。

 

それは個人的には10年より前から痛感していることなのだが、何故改めてそういう話が他の飲食業界の人との会話で出てくるかと言えば、これはスタッフの教育問題に繋がってくるわけで。

 

もちろん、料理は美味しく作れるように教えなければならない。料理が不味い飲食店に、わざわざ足を運ぶ人は少ないからだ。

 

だが、社員や店長クラスともなれば、料理だけが秀でているからと褒められない事情がある。

 

ところが料理というのもこれは地味な作業の積み重ねであり、現場仕事という観点から言って、垣根の低さからもあまり頭の良い人間はこの仕事を選ばないこともあり、必然的に土方と似て、体力仕事であり技術職であり、職人的なプライドが必ず問題になってくる。

 

当然、そういうプライドも大事なのは確かだけど。

 

飲食店を運営していく上では、料理よりも大事なことというのは山ほどあったりもするわけで。

 

俺はちゃんと料理作ってんだろ!という考え方で来られると、非常に厄介な出来事というのは多い。

 

もちろん、自分が若い頃はそういう考え方だったし、そういう職人さんが生きてこれた時代だったから、それで正しかった部分もあった。

 

バブル期というのは基本的にカネがあった。沢山人を雇えるだけの売上があったのだ。今はそうではない。料理にも創意工夫が求められ、コストパフォーマンスやリスクマネジメント、顧客満足度、店の外観内観、サービスのフィードバックなどあらゆるジャンルでそれなりのハードルをクリアしないとやっていけない時代になった。

 

カネがないからだ。作る側にも買う側にもカネがないので、双方シビアな現実の前で取捨択一を要求されるのだ。

 

買う側は、それほど美味しくなくても、値段や雰囲気がそこそこよければ良かったりする。そこに売る側が、いやこんな味では料理とは言えないと説いてみた所で煙たがられるだけなのだ。

 

そういうことをどうやって教えていけば良いのかと常日頃から思うのだが、やっぱり私のような人間は基本を大事に思うので、社会契約というところから入ってしまうのである。

 

あなたの仕事とは何ですか、ということから考えると、料理だけ作ってれば良いと言う結論にはならない。

 

労働も社会契約であって、店で飲食することもひとつの社会契約。君が美味しい料理を作れても売れないなら意味が無い。そういうことを丁寧に教えて行く必要があるのではないかと思う。

 

美味しさというのは所詮自己満足なのだ。だが、社会契約としての労働は、求められる相手からの要望に答えるというレスポンシビリティが不可欠だ。

 

その要望の枠が広い方が、多くの客を集めることが出来る武器となるわけであって、より多くの客を満足させることが売上を維持し、上昇させることに繋がっていく。

 

この五年くらいか、説明責任という言葉が濫用されるようになった。自己責任という言葉も良く見る。

 

だが日本人は責任を取ることが苦手な人種だと思う。責任を明確にせず曖昧に濁すことが文化である日本人がこの数年責任という言葉を多用するようになったのは面白い。

 

だが同時に、結局良くわからずに濫用しているだけ、という面もある。

 

日本人が等しく義務と責任を行使できる日は来るのか?と常々思っているが、やはりそれは自分自身にも教える立場である以上、後進に伝えていかなければならないのが理と考える。

 

で、大体が日本人が責任という言葉を使うのは、自分に責任がない場合に限られている。国会の議論でそれなのだから、次の都議会選挙で自民党が36%の支持を得る予想に対して民進党が2%しかないというのも、納得の結論である。

 

責任と義務は等しく果たされるべきだ。そして、それに伴い等しい対価も得られなければならない。

 

社会契約とは何のためにあるかと言えば、不平等な搾取や不自由から人間の尊厳を守るためである。

 

権威や権力のために個が犠牲とならぬために、最初から平等な条件を提示して、双方合意のもとで契約を結び、それを行使することでお互いの利益と尊厳を保つのである。

 

こんな基本的なこともわかってないので、権利ばかり主張して責任は取らない輩が増える。

 

権利の主張の前に義務や責任を果たしているのか、ということを考えるためには、社会契約という概念から教えていくしかない。と思うのである。

 

義務教育でしっかりそういうことを教えて欲しいよ。大学出たってそんなことわかってない奴多いし。ルソーは18世紀に社会契約論を説いたのにそれから200年以上も経って、まだ世界は未熟だ。

 

だがそれに辟易する暇は、俺にはもう無い。

 

 

料理人から見た北朝鮮

昨今北朝鮮がにぎやかだ。

そんな風に言ってられるのも今のうちかと思ったり、ただのハッタリだろうと思ってみたり。

 

北朝鮮の料理と言われてもいまいちピンとくるものは無い。韓国料理の方が馴染み深いのは当然だろうし、北朝鮮に料理文化などあるのか?とすら思う人がいてもおかしくない。

 

料理人からすると、料理というのはその国や土地に住む人が生み出し織りなしてきた文化そのものと思っている。

 

ミクロで言えば、我々は母親の料理に感謝すべきであり、今自分が感じている味覚に対する五感が全てそこから始まっているわけで。

 

マクロで言えば、生まれた土地が生み出す資源に感謝すべきなのだが、日本においてはもはや日本だけの資源では成立していないのが現実で、そもそもグローバル化しちゃってるので料理に対する文化的な知見というのは稀薄になっているのではないかとすら思える。

 

うろ覚えだが韓国料理でも有名な冷麺は、北朝鮮が発祥だったような気がする。

 

北朝鮮という国はかの第二次世界大戦の後、朝鮮戦争によって南北に分断された社会主義国である。資源に乏しく海にすら面さず、中国とロシアに挟まれた弱小国と呼んで差し支えない。

 

だが朝鮮戦争に米国が参戦しなければ、今の韓国は無かった。北朝鮮はすでに済州島近辺まで一時的には制圧していた経緯がある。

 

アメリカさえいなければ、朝鮮は統一国家として金ファミリーの元で社会主義国だったのだ。

 

そういう意味ではアメリカ憎しとしても仕方ない。

 

資源を持たない国が生きていくのは大変だ。海から魚も捕れず、山は鉱山系が多いらしく食料的な資源には乏しい。まして、緯度も高いので気候も厳しい。

 

朝鮮式冷麺にはそうした国ならではの工夫がある。ひとつは唐辛子だ。寒さを凌ぐためのカプサイシンの摂取は朝鮮人にとっては遺伝子レベルで組み込まれた自然の摂理だったろう。

 

唐辛子と塩で保存食品を生み出したのも寒い地域を生き抜く人間の知恵だ。

 

何より驚かされたのは麺だ。あの剛麺はどうやって作っているのかと言えば、熱湯で練り上げているのだ。同じ事を日本でしても意味は無い。日本は北朝鮮に比べたら高温多湿で、麺生地を熟成させることが可能だ。中国は湖がアルカリ性の水だったおかげで小麦グルテンを強化することができた。

 

北朝鮮は寒い気候の中で粉を熱湯で練ることを発見した。そうすることによって短時間でグルテンを引き出し、食感の良い麺を作り上げた。

私もそんなに朝鮮料理のなんたるかは知らない。

 

だが、人間とは等しく存在する知恵を武器にした生物である。シリアで生まれようが南アフリカで生まれようが、北朝鮮で生まれようが、血と涙を流して頭を働かし額に汗して今を生きていることに変わりはない。

 

そういうことを料理を通して思うことがある。

 

先日、部下から[イタリアンとはなんだろう?と思うんです最近]とボソッと言われた。たかだか二年近い料理経験しかない彼だが、いろいろ料理を教えていくうちにそんな言葉が出るようになった。

 

どこの国の料理もよく考えて作られている。その土地の風土を、生活を、最大限に使って。イタリアンがフレンチが偉いわけではない。もちろんダメなわけもない。洗練された料理がそこにあるだけだ。

 

問題はそこからどんな背景を汲み取るかだと思う。料理からその国の人々を見透かすこともできるし、作ってくれた人の性格だってわかる。

 

そしてやはり料理は芸術ではないと私は思っている。

 

料理は誰でも作れる。作らなければ生きていけない。料理とはそういう生活の根幹であるのであって、芸術の類ではないと思う。もちろんお金を取るなら芸術的要素も不可欠だろう。けれどもそこに重きを置くべきではない。

 

料理に必要なのはその人のバイタリティ、人生そのものが現れてないといけないと思う。つまらない料理人の傲ったメシを食わされるくらいなら、コンビニメシの方が遥かに良く考えて作られている。

 

ホワイトハウスの料理人はトランプに冷麺を作ってやれば良いのにと思う。

 

ただまぁ、それでどうなるものでもないのも、確かだけど。

インフルエンサーとseishiro

朝方、出勤の傍らでYou tubeを見る日がある。

 

考え事を抱えているときは音楽すらかけないことも多い私の車内だが、朝は道も混んでいるので、気を紛らわすように何かの映像を流している。

 

乃木坂46のインフルエンサーという曲。

 

もう初老も近付くと音楽に対して目新しい感動は生まれない。そういう意味ではアイドルポップスを産み出し続ける秋元康という人がまず凄いなと思う。

 

インフルエンサーとは、消費者行動にまで影響力を持ちうる人物に対する言葉であるらしい。

 

曲はどこかで聴いたことのあるような、ラテン、ヒスパニック、ジプシー、歌謡曲を取り入れたような、ポップスらしいもので、衣装は黒さのある青を基調としてスタイリッシュでクールな雰囲気にまとめている。

 

何より注目したのは、踊りだ。おニャン子時代から比べたら、近年のアイドルの踊りは複雑になった。

 

横に揺れながら手を動かすだけの80年代アイドルは、もはや見るのすら恥ずかしくなるが、それを基礎にしてアイドルの世界はここまで進化したのだな、と思う。

 

インフルエンサーの踊りは、自分が若い頃に流行ったパラパラのコンテンポラリー版とでも言うか。

 

誰がこれを振り付けたのかなと調べたらseishiroというダンサーとわかった。

 

私はダンスというものには縁もなければ興味もさほどないが、表現という意味では学ぶべきものが多くある。

 

最近注目したのは宝塚と都をどりだ。

共に歴史があり、文化としての側面を大いに持っている。

 

この2つに共通しているのは、大人数が舞台で踊るという点である。宝塚の場合は宝塚歌劇団が、都をどりは八坂女紅場がその母体となり、踊り手を育成している。

 

どちらも商業として成立していて、エンターテイメントである。

 

その意味では、AKBや乃木坂も、この序列に加えてもおかしくはない。歴史が文化がどう評価するかは別として。

 

なぜそこに注目するかと言うと、つまりは素人の女の子を、エンターテイメントの表現者として成立させるためにかかる方法論とポイントが気になるわけである。

 

宝塚歌劇団の場合は、はっきりとした競争社会があるだろう。学校に入るまでも狭き門であり、そこからトップスターになれるのはごくわずかな人達だ。

 

都をどりは、もっと風俗に寄り添う形であろう。競争もあるだろうが、をどりが出来なくても、茶屋で頑張ればよいという芸娘もいるだろうし、皆が皆完璧な舞踊ができなくとも、文化的な意味あいも強いだろうから、許される部分もあるのではないか。

 

アイドルはもう少し立ち位置が曖昧だ。消費される最先端の文化にいながら、いつ消え行くともしれぬ我が身を案ずる暇もなく、中途半端も許されない、しかし学校のような組織に守られているわけでも、エンターテイメントを極めたいという欲求だけでもなく、何百年続く歴史に裏付けを得ているわけでもない、刹那の道化なのである。

 

それが、インフルエンサーではとんでもないダンスをさせられている。

 

いや、否定的な意味でなく素直に凄いなと思った。ーもちろん、seishiroのダンスを見たら乃木坂のダンスなんて何の比較にならないのは一目でわかる。

 

問題はいかにしてseishiroが乃木坂のために振り付けを考え、商業主義と迎合し、若きアイドルの女の子達のために噛み砕き妥協しながら、どこまでダンサーとしてのプライドも捨てなかったか、ということだと思う。

 

これは非常に重要な部分であると思う。

 

何かを伝える、教える、育てる。どこを削り、何を残し、どう繋ぐか。

 

いろいろな分野のプロがいる。一人ひとりの努力が全体として形になるためには、それぞれをつなぐものも重要で、ひとつひとつのピースの見極めも必要になるし、置く位置も戦略性が重要で、動かしてみなければわからないことも多い。

 

企業ならひとつのプロジェクトにある程度の人数もかけられるだろう。

 

でもきっと、そういう単純な時代では無くなっている。

 

だってアイドルにさえ、このレベルの表現力が求められる時代になっているのだから。

 

私は料理を通じて、何を伝えるべきなのだろう。