料理と政治

料理人とは面白いもので、料理があるところに必ず存在するわけだから、ありとあらゆる人種と交流する可能性を持っている。

 

まるで世界中の都市にチャイナタウンを作る中国人の如く、恐らく世界中のコミュニティに必ず一人は料理人が関わっているだろう。

 

我々料理人が料理人同士での自慢話になると、必ず一度は聞くのが“オレは誰々に飯を食わせた”というものである。

 

別にお前が金払ったわけでもなかろうに、ましてやお金を頂いておいて“食わせてやった”と自慢するのだから、料理人のプライドというのは興味深い。

 

大体がどこそこの有名人、特に芸能人の名前が上がるのが常だが、結局誰もが唸るのは政治家の大物の名前が出た時である。

 

多少の有名人ならば、どこの店に居ようがチャンスはあるもので、しかし政治家となるとこれは中々、敷居の高い店に居ないとチャンスがそもそも少ないわけである。

 

かく言う私の師匠は、その昔官房長官に飯を食わせたことが自慢であった。もうその人はとっくの昔に逝去遊ばされたが、四十代以上なら誰もが知る自民党の大物議員であった。

 

この話をするときの師匠の鼻の高さは尋常ではなかった。

 

その後私も某政党の党首の方に料理を作る機会が訪れ、なんとなく師匠の気持ちがわかるようにはなった。

 

政治家というのはやはり、セキュリティが世の中で相当厳重な人種だと思う。

 

言い方は悪いが、芸能人というのは死んでも困らない(ファンの人は精神的に困るかもしれないが)けれども、政治家というのは簡単に死なれては困るのである。

 

自衛できるだけの理由とモノを持つ大富豪を除けば、厳重な警備を必要とする人種はやはり政治家しかない。

 

その政治家に飯を食わせるというのは言わば、生殺与奪を握ることと同義というのが料理人の考え方なのかもしれない。

 

言わば、この国を守ってやったくらいの勢いなのである。

 

たった一度、飯を作らせてもらったくらいで。

 

昨今、アメリカのトランプ新大統領が、何か突飛な発言をするにつけ市場の値動きが加速する。あの立場にもなれば、たった一言でも国が揺れ会社が倒れる事態になる。

 

しかし料理人からすれば政治家も人間である。美味しいものを食べてもらいたいと思うのみである。

 

大使公邸の料理人という漫画があったかと思う。ベトナム日本大使館で働く公邸料理人が主人公で、現地の人との交流、国と国との外交の中で、料理人がどのような役割を持たされているかという話だった。

 

私も20代の頃に、アフリカのどこかの国の大使館で料理人を募集しているから行ってみないかと誘われたことがあるが、当時はまだそれほどの腕もなく丁重にお断りした。

 

あの時その道を選んでいたら、今頃はアフリカで全然違うこと考えていたのかなと思う。

 

料理は人と人の間にあるもので、自分の作った料理は時に人を結び付けたりもする。外交では大使公邸で出される料理にメッセージがあり、時に料理人としての信念よりも、国家戦略としての料理を作ることが優先されるべきこともある。

では料理人の信念とは何なのか。これが定まっていないと何も始まらないと私は思う。

 

ただご飯を作るだけなら、きっと誰にでもできる。だから飲食業は間口は広い。学歴もいらないし、キャリアを積まなくても、国家資格が無くても、資金さえあれば開業できる。

 

そういう職業だから、政治家に飯を食わせるってことが自慢になるんだろうなぁ。逆に、一般的には大物政治家と会ったことより、超有名ミュージシャンとかアイドルと会ったことのほうが遥かに自慢になるわけで。

 

まぁ、その考え方も今ひとつわかりませんが。

 

料理と死

人は生きているからこそ料理を作ることができ、生きているから料理を味わうことができる。

 

それと同時に、料理を作るということは様々な生き物の死を経てこそ、その屍の上に成り立つものであるということを現代人は忘れがちである。

 

屠殺場で殺される牛や豚を眺めながら焼肉を食べられる人というのは、そう多くはないのではないか。

 

逆に、動物園に行って鳥類のコーナーで、焼き鳥屋が屋台を出していたら面白いだろうなと思うのは料理人の発想ではあるかもしれないが一般的ではないだろう。

 

料理と死というのは密接に関係している。料理人は匙加減ひとつで人を殺すことができる。数年前に起きた某焼肉屋の食中毒事件は記憶に新しい。食材の管理ひとつで、人は死ぬ。

 

我々は生き物を殺し、その命を頂いて自らの命としている。

 

料理人はすべからく、それを忘れるべきではない。

 

結局、そこにあるのは感謝だ。生きとし生けるものが生かされるために生けるものを殺して食うのだ。

 

ありがたく頂戴するしかない。

 

幼い頃、食べ物で遊ぶなと怒られたことはないだろうか?昔の人は良くわかっていたのだろう。食べ物で遊ぶということは、死への冒涜であり生への侮辱なのだ。

 

だが現代は飽食である。いや、現代日本は飽食である。食べ物に溢れ、食べ物を廃棄すら平気で行っている。それが全て悪いと言いたいわけではない。

 

もし自分が食べられるなら、せめて美味しく食べてもらいたい、食べられずに捨てて欲しくはない。多少なりともそういう気持ち、純粋な部分でそういう気持ちがなければ、料理がうまくなることはないだろうと思う。

 

歴史的にも料理は、捨てないことから始まっているようにさえ思う。肉と骨を分け、骨から味を取り肉に付け足していく、そういう技術は単純に美味しいものを生み出したい欲求から考え出されたとは思えないのだ。

 

捨てるに忍びないと思った誰かが、そのままでは食べられない骨を何とか食べられないかと考えた誰かが、最初に思いついたのではないかと。

 

理由付けされたのは後からなのだ。科学的に分析されてガストロノミーなんて言われ始めたのもこの十数年のことでしかない。

 

料理は人類の歴史であり、文化そのものだ。人類の生死が、生き物の生死がそこに有り続ける。

 

そう思うと、金にならない料理人人生も悪くはない。

味覚の思考

味覚を言葉で表現する。これほど難しいことはないと私は思う。特にそのバランスについて、後輩を教える時、誰かに料理を教える時、いつもこの問題に直面する。

 

結果、レシピというものを生み出すことになり、そのとおりに作らせておいて、出来上がったものを食べた時に、ああ、違うな、と思うのである。

 

味覚を思考することがないからだ。

 

味覚は直感であり、感覚は思考で制御も再現も簡単ではない。これができるのは料理人でもごくわずかで、それができるからと言って優れた料理人と言われるわけでもない。

 

大体、優れた料理人と呼ばれるのは唯一無二の味覚を生み出せる人のことを指すことが多いのではないか。

 

他の誰もが作れるわけでもない料理を作れる人が褒められるのであり、料理を細分化して再構築できる料理人は、他の料理人から認められることはあれ、恐らく世間一般ではまずその凄さがわからない。

 

わかりにくく書いてしまったがつまり、誰かの作った料理を食べて、そのレシピが理解出来て同じものを作れる人のことを言っている。

 

私にはできない。ある程度はできるが絶対的ではない。

 

音楽で言われる絶対音感のような、これは能力、才能であり天賦の賜物と、相対音感すら乏しい20年選手は思う。

 

味覚を絵にできたら?

味覚を言葉にできたら?

 

そう思うこともあるが、恐らく出来たとしても伝わらないのである。私も色々な先輩方に教えを請うてきたが、いよいよ教える立場になった今も、どうやってこれを覚えてどうやってこれを教わったのかよくわからないというのが正直なところである。

 

先輩たちと肩を並べられるような料理を作れるようになったとはこの頃思うが、先輩たちの料理をそっくりそのまま再現出来ているとは到底思えない。

 

ある程度のことは教えてもらったのだけれど、最後の最後、味覚を決める際の際、その深淵については先輩方から教わったことは何もなく、自ら誰かに教えられることも少ないのではないか、そんな風に思うのである。

 

塩味や甘味や酸味や辛味や苦味の狭間で、時に針に糸を通したり、時に大胆に取って捨てたり、パーテーションで区切って見たり、瞬間瞬間の判断でいろんなことをしている。

 

ここでこう、そこでこう、と思うことはあるが、その地点をまず説明ができない。塩味より甘味が0.25増えた時、とか数値化出来るのかもしれないが、それを指数化する装置が即応性に優れない限り、瞬時の判断に説明は付かない。

 

まず自分の舌という味覚があって、目分量と言われるような視覚的感覚と、手の触感による熱量や重量の感覚を通して食材の状態をコントロールして、目指す味に近付けて行くしかないわけで。

 

どうやったら味付けが上手くなりますか?という質問は、ものすごくわかるのですがものすごく難しい質問かもしれません。

 

なので、一番最初に答えるのは、人間の味覚のうち、塩分については、人間の血中塩分濃度と近似していますよということです。

 

塩化ナトリウムの血中濃度は0.8~0.9%と言われています。それを目安にしておけば、大きく味付けを間違うことはありませんよと。

 

しかし、世の中にある美味しい料理というものは、塩分と糖分、油分のコラボレーションで作られているので、人間の血中濃度とは異なってくるのですが。それは、説明が難しいのです。

 

 

味覚という不明瞭なもの

料理人を続けていると、ふと疑問に思うことがあると思う。

 

味覚とはなんぞ?

 

人間の感覚なのである。体調に左右されるし、個人差もあるし、遺伝的なものもあるから、人種によってもその感覚は絶対的に違うと言える。

 

ちょっと風邪を引いただけでも人間の味覚は鈍感になるし、舌が肥える、とも言うが、経験値によっても異なってくる。

 

激しい運動の後は、ナトリウムが消失しているので、自然と濃い味が欲しくなる、というのは有名だが、客が何キロジョギングしてから来たかなど、作る側にはわからない。

 

我々料理人は、絶対値の異なる不特定多数の人間の味覚を相手にしている。

 

これはおよそ、スポーツの世界では考えられないことだ。学校の徒競走で一着になったからと、オリンピックの選手といきなり戦えるはずはない。

 

だが、百戦錬磨の料理人でも、お金さえ払って頂ければ、味覚レベルの未開人相手に勝負しなければならない。

 

味覚とはなんぞ?と思うのであれば、まずは味覚をとことん調べることが先決だろう。そして最後は、料理を作る相手の味覚を見抜くこと。それしかないのである。それは決して教科書には出てこない。

 

出てこないということは、教えようがないのである。

 

料理と音楽とお笑いというものは、テキストにして教えることが不可能だそうである。これらを習得するためには、習得している人のそれを直接見て真似するしかないそうな。

 

私は世の中に溢れているレシピというものは、ほぼ全てが嘘であると思っている。全く同じ条件と同じ分量を用意しても、人が違えば、たったそれだけで料理は異なる結果を生み出すことを知っているからだ。

 

レシピというのはあくまでも目安に過ぎない。料理というのは科学ではあるが、人間の感覚というものはレシピに表せるものではない。

 

味覚というものがそもそも不明瞭なのだ。曖昧でありながら繊細で、一点かと思えば多点で、三角波のような複雑さを形成したかと思えば、明鏡止水の如く澄み渡ることもある。

 

そのどれが相手にとって最も効果的なのか。そういうことを秒単位で考えているのが料理人だろうと思われる。

料理人が見る世界

料理人とは何か。その答えは実はちょっと難しい。いや簡単か。

 

菊乃井の村田さんという有名な料理人が、先日テレビで[料理とは理を料ると書きます。理とはことわりです。だから料理人というものはまず考えないとあきません]というようなことを言っていた。

 

考えるのが料理人なのだ。

 

素材と対話する、という人がいる。どうやって?

何も話さない素材と、どのように対話するのか。素材と向き合い、その性質を知り、活かし方殺し方を知り、育ち方や育った場所の背景にまで目を向け、手に取って目で見て口にして初めて、素材からの声は聴こえる、かもしれない。

 

私が20年料理をしてきて思うことは、食材というものは誠に嘘をつかないものであるということに尽きる。

 

素材と対話するというのも一つの言い方かもしれない。素材を見抜くという言い方もあるかもしれない。そして結果的に嘘をつくのは人間であり、騙されるのも人間である。

 

素材は嘘をつかぬ。人間がこれに嘘をつかすことはできる。だが素材が嘘をつかぬ限り、騙されるのは人間だけである。

 

料理人が見る世界というのは、料理を通じてこそ。自分が作り出したものを食べて、人がどのような反応をするか、それを見続けているということだ。

 

もし料理が無ければ、料理人という生き様は実現しようもなかっただろう。これぞ文化というものだと思う。料理人は料理を通して、宗教家にも哲学者にもなれる。料理が無ければ、ただの人。料理があっても、まぁ、ただの人の域は出ないか。

料理人であるという自覚

私は、料理人である。

 

こうはっきりと言えるようになるまでには20年かかった。とはいえ、未だにどこかに疑問符は付いている。

 

私は料理人なのか?

 

疑い始めればきりがなく、自分で決めたからそのように呼ぶしか無く、ついにそれが自他共に認められる水準で、料理人ではなかろうかとつい最近思えるようになっただけだ。

 

料理をなりわいとして生きていることが料理人、というのであればもう既に20年料理人であるし、料理が上手いということが料理人なのであれば、3歳から天麩羅を揚げ始めたと親に言われているので上手くなければ何をやってきたんだという話になる。

 

料理人とは、生き方そのものから問われるジャンルの人間像ではないだろうかと私は思う。

 

サラリーマンとも、経営者とも違う、芸術家でもなければ宗教家でも学者でもない。料理人というカテゴリがある程度は認知されている、そういうものではないかなと。

 

決して威張りたいわけではない。肩で風を切りたいわけではない。料理人と書いた看板を背負って町中を練り歩きたいわけでも、ない。

 

それとなく、ああ、料理人というものはおかしな奴が多いもんだ、という昔からの概念と、この数十年の自分の生き様が重なり合い、今こうしてここに自分を料理人ではなかろうか、と認知する次第。

 

ここに皆様にお知らせ申し上げ候。

発信する時代を生きるとは

2017年。

 

やれ、生きにくい時代になったものだ、と言う人がいる。

私は1979年生なのでもうすぐ初老がやってくるが、こういう人はいつの時代も居て、また自分も等しく、そう思う時期があるものだと思う。

 

つまり、自分の人生における問題のいくつかを、時代のせいにしてしまおうというある種の責任転嫁だ。

 

自己責任という言葉が溢れ、誰もが誰もを監視しているかのような、とはいえ杓子定規というわけでもなく、なんとなくだらしなく生きている人々も多いのだが、さりとて現代に生きる人々が概ね直面しているのは、発信する時代であるということではなかろうか。

 

そもそも、人間のみならず生き物というものは何かを発信して生命を繋いでいる。それが花粉なのか、音波なのか、電波なのか、エネルギーなのかという差であって、たまたま人間には言葉というものがあって。

 

動画であれ音楽であれ、画像であれ、やはり言葉というものから分離されているわけではないと思っている。

 

受け取る人間の頭の中で、その思考の行程として言語があるわけで。言葉とはつまり、人間として生きる上では非常に重要な要素のひとつでもあると。

 

そんな言葉を持ってして。どこまで発信することができるのかということを思う。伝えることができるかどうかまではわからない。

 

だが、発信できる時代になった。

雑多に溢れるネットの情報の片隅で、私は誰に読まれるともわからぬ言葉を書き殴る。

 

なるべく簡潔、丁寧に。

よろしくお願いします。