味覚という不明瞭なもの

料理人を続けていると、ふと疑問に思うことがあると思う。

 

味覚とはなんぞ?

 

人間の感覚なのである。体調に左右されるし、個人差もあるし、遺伝的なものもあるから、人種によってもその感覚は絶対的に違うと言える。

 

ちょっと風邪を引いただけでも人間の味覚は鈍感になるし、舌が肥える、とも言うが、経験値によっても異なってくる。

 

激しい運動の後は、ナトリウムが消失しているので、自然と濃い味が欲しくなる、というのは有名だが、客が何キロジョギングしてから来たかなど、作る側にはわからない。

 

我々料理人は、絶対値の異なる不特定多数の人間の味覚を相手にしている。

 

これはおよそ、スポーツの世界では考えられないことだ。学校の徒競走で一着になったからと、オリンピックの選手といきなり戦えるはずはない。

 

だが、百戦錬磨の料理人でも、お金さえ払って頂ければ、味覚レベルの未開人相手に勝負しなければならない。

 

味覚とはなんぞ?と思うのであれば、まずは味覚をとことん調べることが先決だろう。そして最後は、料理を作る相手の味覚を見抜くこと。それしかないのである。それは決して教科書には出てこない。

 

出てこないということは、教えようがないのである。

 

料理と音楽とお笑いというものは、テキストにして教えることが不可能だそうである。これらを習得するためには、習得している人のそれを直接見て真似するしかないそうな。

 

私は世の中に溢れているレシピというものは、ほぼ全てが嘘であると思っている。全く同じ条件と同じ分量を用意しても、人が違えば、たったそれだけで料理は異なる結果を生み出すことを知っているからだ。

 

レシピというのはあくまでも目安に過ぎない。料理というのは科学ではあるが、人間の感覚というものはレシピに表せるものではない。

 

味覚というものがそもそも不明瞭なのだ。曖昧でありながら繊細で、一点かと思えば多点で、三角波のような複雑さを形成したかと思えば、明鏡止水の如く澄み渡ることもある。

 

そのどれが相手にとって最も効果的なのか。そういうことを秒単位で考えているのが料理人だろうと思われる。