料理と死

人は生きているからこそ料理を作ることができ、生きているから料理を味わうことができる。

 

それと同時に、料理を作るということは様々な生き物の死を経てこそ、その屍の上に成り立つものであるということを現代人は忘れがちである。

 

屠殺場で殺される牛や豚を眺めながら焼肉を食べられる人というのは、そう多くはないのではないか。

 

逆に、動物園に行って鳥類のコーナーで、焼き鳥屋が屋台を出していたら面白いだろうなと思うのは料理人の発想ではあるかもしれないが一般的ではないだろう。

 

料理と死というのは密接に関係している。料理人は匙加減ひとつで人を殺すことができる。数年前に起きた某焼肉屋の食中毒事件は記憶に新しい。食材の管理ひとつで、人は死ぬ。

 

我々は生き物を殺し、その命を頂いて自らの命としている。

 

料理人はすべからく、それを忘れるべきではない。

 

結局、そこにあるのは感謝だ。生きとし生けるものが生かされるために生けるものを殺して食うのだ。

 

ありがたく頂戴するしかない。

 

幼い頃、食べ物で遊ぶなと怒られたことはないだろうか?昔の人は良くわかっていたのだろう。食べ物で遊ぶということは、死への冒涜であり生への侮辱なのだ。

 

だが現代は飽食である。いや、現代日本は飽食である。食べ物に溢れ、食べ物を廃棄すら平気で行っている。それが全て悪いと言いたいわけではない。

 

もし自分が食べられるなら、せめて美味しく食べてもらいたい、食べられずに捨てて欲しくはない。多少なりともそういう気持ち、純粋な部分でそういう気持ちがなければ、料理がうまくなることはないだろうと思う。

 

歴史的にも料理は、捨てないことから始まっているようにさえ思う。肉と骨を分け、骨から味を取り肉に付け足していく、そういう技術は単純に美味しいものを生み出したい欲求から考え出されたとは思えないのだ。

 

捨てるに忍びないと思った誰かが、そのままでは食べられない骨を何とか食べられないかと考えた誰かが、最初に思いついたのではないかと。

 

理由付けされたのは後からなのだ。科学的に分析されてガストロノミーなんて言われ始めたのもこの十数年のことでしかない。

 

料理は人類の歴史であり、文化そのものだ。人類の生死が、生き物の生死がそこに有り続ける。

 

そう思うと、金にならない料理人人生も悪くはない。