どうなりたいか、どうしたいか。

主観、客観という見方がある。

ミクロ、マクロという見方がある。

お客様の立場、料理人の立場というのがある。

 

すべて社会という枠組みの中で、あらゆるルールだとか考え方だとか方法論という筋書きの元に、結局は個人として単体の動物としての成り行きの原始的な行動が始めとしてあり、複雑に絡み合うように見えて、結果は淡々としている。

 

できないものは、できないし。

できることが、今のすべてであるし。

 

正解とは何かとか、自分とは何者であるかとか、料理とはこうあるべきだとか、他人がこうだからそうだとか、常識がそうだからこうしようとか、時代が悪いからしょうがないとか、私は悪いとか悪くないとか。

 

風が吹けば桶屋が儲かる

 

選挙に行けば何かが変わるのか?恐らく、個人の一票がその個人の願いを叶えるほどの重みは持つまい。だが、個人の信念の一票が、続けているとやがてその願いが届く日は来るかもしれない。

 

川に小石をひとつ放り込んだところで、川の流れは止めることも変えることもできないだろう。だが、それを毎日続けていれば、いつか誰かの目に止まり、何故小石を投げ続けているかを問われ、その答えに応ずるものがあれば、その誰かに川の流れを制する力があれば、もしくはその他大勢の人々の賛同があれば、川の在り方は変わるかもしれない。

 

だが多くの人は、川に小石を投げ込んでも、すぐに沈んで何の意味も成さないことを知っている。そして、本気でそれをやっている人間を見たとして、本気でそんなことをしているとは誰も思わないだろう。

 

だから川の流れを変えるというのは大変なことだ。

 

だが、本当にそうなのだろうか?

小川くらいなら、なんとかなるんじゃないか。

その小川を何本か変えていくうちに、大きな川への石の投げ込み方が、わかってくるのではないか。

 

結局、人間というのは、生き物というものは、どうなりたいか、どうしたいのかということが重要だと思っている。

 

あらゆる生き物はまず生の欲求に溢れている。人間くらいが、自分で自分を殺すことができるレベルの知性を持っているのかもしれないが、それが恵まれたことなのかどうかは個人差も大きい。

 

生きていればそれで良いのだ。息をしていればそれだけで良いのだ、まずはそれくらいのところまで単元的に見つめなければならないのかもしれない。

 

そこから、まずはあらゆる先入観や、常識、哲学、宗教、道徳、イデオロギーパラダイムというものを消し去って見たときに、自分に残されるものが何かということ。

 

それが、自分を動かしている根源的なものであろう。

 

その根源的なものが破壊的な人は、人を殺したり人から奪い取ったりすることでしか生きていけないのだろうし、短絡的な人は、そういう手段にしか自分の術を持たないだろう。

 

しかし、もしそれに自ら気が付いて、社会の求めるそれとは自分の思っていることが相容れないのだとなったとき、それを変えていけるのも人間の知性ではないかと思う。

 

自分が変態的なまでに貪欲な破壊欲求があったとして、それを気付いても変えられないとすれば他の動植物と同じかそれ以下の存在である。

 

変えようと思うこと、変わりたいと思うことが始めに在り、そこから方法論というものは生まれてくるわけで、その後付として歴史や科学があり、結果として今の社会が成立している。

 

時代が変わっていくのは健全なことであり、人の考え方が変わるのも、人が裏切るのも、翻るのも、ごく自然な川の流れである。

 

そうでなければ、何事も始まらない。

 

だから、人間とは何を成すべきでもなく、まずは自分がどうなりたいのか、どう在りたいのかを常に問うべきではないか。

 

ご飯を食べたいなら、より美味しいものを。

そういう思いが、料理を進化させている。

 

最初から三ツ星レストランを作れる人間はどこにもいない。

最初は小石しか投げられないのだ。そしてその小石が小石のまま、何も変えられずに何も気付かずにあきらめていく人の多いこと。

 

世の中には、その小石を別のものに変えていく人か、小石を本気で投げ続ける人かのどちらかが必要とされている。

 

あきらめた人に、誰も手は差し伸べない。

 

私は小石しか持たない。だから小石を投げ続ける。どんなに沈んでも、届かなくても、私はそれが小石であることを知っていて、それを投げ続ける。それで一生が終わっても、全てが最後に流されても、私はそれでも構わない。

 

最後の一投まで投げ切る覚悟で、ぶん投げるのだ。

 

それでダメなのは、きっと私ではないのだから。