涙など見せない。

飲食業をしていて、色々と問題は多いのだけれど、続けていて良かったなと思う時は大抵、お客様の存在に気付くときである。

 

日々、大量の客を捌いていると、忙しければ忙しいほど、客の顔ひとりひとりまで覚えていることは少ない。

 

もちろん、客商売なのだから、すべてのお客様の顔を覚えて対応ができれば、きっと凄い商売人になれるのだろうけど。

 

政治家で言えば、田中角栄などは、人の顔と名前を良く覚えていたことで有名だったそうだ。一国の首相ともあろう人に、顔を名前を覚えていてもらったら、それほど嬉しいことはないだろう。

 

田中角栄は飲食店をしてもきっと成功しただろうなと思われる。

 

逆に、それは店側の立場としても同様で、前回来たときに店員としての自分を覚えていてくれた人がいると、嬉しいものだ。

 

人間というのは、そういうふうに承認欲求を満たし合って存在している生き物だと思う。

 

頑張っている自分を見て欲しい、わかってほしいのである。

 

だから、受けるよりもまず与えなさいと聖書が言うのはある意味当然である。承認してほしいならまず誰かを承認することが優先である。自分を愛せない人が他人を愛せないのも、似ているような気がする。

 

ものすごく忙しい日が続いた夏の暑い日、厨房で汗だくになりながら必死で料理を作っていて、オーダーに追われながら気を失いそうになる瞬間がある。

 

オーブンやフライヤーの熱気で厨房は灼熱地獄。客が入るのは嬉しいが、それが三時間を超える辺りで人間は集中力も切れてくる。用意していた水は飲み切ってしまい、喉を潤す暇すらない。

 

次々に舞い込むオーダーに食らいついては、死に物狂いで目の前の料理に力を注ぎ込み、命を削っている気持ちにすらなる。

 

もうダメだ、もうこれ以上は、とあきらめる瞬間が今か今かとやってくる。手を抜いてしまえと悪魔が囁く。でもそれをしてしまっては、とまた手に力を入れ直す。

 

次の瞬間、仲間のミスに足を取られる。オーダーミスで、致命的な遅れを喫する。口には出さないが、このやろうと思ってしまう。その料理を作り直すために、どれだけの労力が必要と思っているのか。

 

だが共に戦っているのだ。彼も限界なのだろう。私も限界だ。そもそも限界なんて自分が決めることじゃないか。そうか限界なのか?自分はここまでの人間なのか?

 

その日の限界点を絞りに搾り尽くして、出がらしになるまで働くと、ついに何も見えなくなる瞬間が来る。もう何も考えられず、目の前のことすら見えない。

 

 

そんな瞬間に、ふとお客様の存在に気付かされる。

 

キッチンの前を通る老婆が、私に微笑みながら、ありがとう、ごちそうさまと言ってくれる。それだけのことに泣きそうになることがある。

 

ありがとうという言葉はそれくらいの力を持っていると思い知らされる瞬間だ。

 

でもそれを知るためには、限界を乗り越える必死さが必要なのだろう。

 

だから、ありがとうという言葉を自然に言えるようになるのもまた、同じなのかもしれない。

 

私は自然にありがとうございますと言えているのだろうか。

それはお客様にどれだけ伝わっているのだろうか。

 

だから、涙など見せられない。