サイレントマジョリティ。
欅坂46とか言うアイドルが歌っているサイレントマジョリティという曲を聞いた。
一糸乱れぬような統一感のある踊りをしながら、ルールに縛られたくない若者の気持ちを歌う。
若い頃の気持ちは複雑だ。
自我はあっても、社会との折り合いの付け方も知らないし、そもそも社会がよく理解できていないし、今時の大学生くらいにもなれば、相応の社会的知識も、法的根拠も知っているだろうから、権利を主張するのか社会に迎合すべきなのか迷うことだろう。
そういう意味での生きづらさは自分も若い頃に経験したような気もする。
もっとも、私の場合それは一般的なものとは少し違うかったようにも思う。とにかく一般的な常識がわからなかったからだ。なにせ、カルト宗教の家庭に育ったもので、日本人の一般的な考え方を教えられずに大人になってしまった。
20代の10年間はすべて、この世界をイチから知るための時間だったのだ。
そういう経緯もあって、良い意味で他人を信用することができず、先入観なく最初から物事を疑ってかかるのが癖になり、本質を洗い出してからでないと取捨選択できない性格になってしまった。
だから、サイレントマジョリティというのはわかるようでわからない。少なくとも欅坂46が歌うには、あまりにもズレた感覚を覚える。
とは言え、飲食業をしているとサイレントマジョリティほど厄介なものは無い。たまに、わがままを言う客がいると逆にありがたいと思う。
何も言わずに支持しない。むしろ批判する。それがこの国のサイレントマジョリティではないだろうか。
だが、言ってくれないとわからないこともある。
ただ、それはルールを逸脱すべきでも、ない。
私がこの歌に違和感を覚えるのはそこだ。縛られるのがいやだ、大人には騙されない、たしかにそういう気持ちもあるだろう。
何も言わずにいても変化は起きない。その意味では確かにサイレントではなくNoを突きつけるべきだ。Yesと言うべきだ。
だが、この世界は君だけのためにあるのではない。
店と客の関係もそうなのだ。店の都合だけでは成立しないし、客の都合だけでも成立しない。お客様は神様ではなく、お客様なのだ。私達はお客様のために日々働き、サービスを提供して代価を頂戴している。
お客様はお客様らしく、どんと構えていてくれれば良い。足りないものがあれば足りないと言い、美味しくないと思えばそう言ってくれれば良い。落としたナイフフォークを拾う必要も無ければ、揚げ足を取るようなクレームをつける必要もない。
私はそう思うが、そうではないお客様も多いし、もちろん人の良いだけのお客様も多い。
だから、私達は気が付かなければならない。サイレントマジョリティが何を求めているのか、何をサービスするべきなのかを。
サービスのアプローチは様々だ。接客を求める人もいれば品質を求める人もいれば、雰囲気を求める人もいる。
お客様を見つめ、観察し、その先にいくつかの選択肢があって、答えはいつも簡単ではないようで単純ではある。
結局、日本人がサイレントマジョリティになってしまうのは、選択肢が増えすぎたせいなのかもしれない、とたまに思う。
若者の生きづらさもきっとそうだ。
道が多過ぎて、黙って歩くしかないのかもしれない。
私には料理の道しか用意されてないので、サイレントマジョリティになる必要もなければ、声を立てて権利を求める必要もない。
だから料理人は偏屈でいられることが許されているのかもしれない。