距離感。

距離感とは、人との間で測るものだろうと思う。

 

自分と相手との距離感は、親密さや信頼をそのまま現すものである。

大人になると、その距離の測り方が難しくなるような気がする。

 

自分だけのことなら、自分の思うがままでよい。

 

だが、周りの人や、家族や同僚が、と歳を取るごとに大切な人は増えていく。

 

娘が全身入墨のヤクザと結婚したいといい出したら?

同僚がとんでもない汚職事件に巻き込まれたら?

親の友達が新興宗教にハマって自分の親熱心に勧誘していたら?

 

大切な人が、そうではない人とつながりを持つことや、裏切られたような気持ちにさせられるくらい別人になってしまうことは無いことではない。

 

多くの人が、結局のところ結果だけでモノを言う。

つまり、起きてから気付く。

 

娘が良くない彼氏と付き合っているかもしれないことに気が付かず、結婚を決めてからでは手遅れなのだ。

 

これはつまり、距離感ということで言えば、実に一方的な距離感だと思われる。

 

娘は大事だろう。親からすれば距離感としては他の誰よりも近いと思っているはずだ。

 

だが、良くない彼氏ができた時点で気が付かなかった時点で距離は離れてしまったのだ。

 

そう思わざるを得ない。

 

私はこうした距離感を料理にも感じる。

 

離れていった素材や味や火加減は、全く同じように戻すことはできない。

 

料理とは、皮を剥くようなところから地道に始まる。野菜の皮を向いた瞬間から、その素材は崩壊を続ける。水分が失われ、風味が失われ、腐敗が進んでいき、そのまま放置していれば食べられないものになってしまう。

 

家庭ではそこまでとは言わないかもしれないが、1日何十人何百人のために料理をするとなれば、目の届かない素材も出てくれば、ほんの少し発注を間違えて、暇な時期とタイミングが重なって、素材を使い切れないとか、賞味期限が間に合わないとか、そういうことはよくあるわけで。

 

捨ててしまうのは簡単だ。食べられないものは客に出せないのだから、捨てるしかないのかもしれない。

 

だが、私はそれが料理人の行動として正しいと思えぬ。

 

いかにしてロスなく作り、最も効率的な方法で味付けをし、なるべく出来立てのものを供するか、そういうことに心を砕き続けることが料理人として必要な資質と思っている。

 

素材との距離感。付かず離れず、あらゆる素材を目につく範囲で把握し続けること。最近は、それがそのまま人間関係にも適用できるのかな、と思えてきた。

 

もちろん、まだまだ不十分である。

 

私はずっと、食材は嘘をつかぬことが信条であった。人は嘘をつくが、食材はそうではない。素材を見つめ続ければ、それは自ずと声を発し、それに応えれば、それなりに輝いてくれる。

 

手をかければ美味しくなり、手を抜けばそれなりの味になり、つまりそれは自分が積み上げておりさえすれば、自然とそのようになるものなのである。

 

しかし人はそうはいかない。大丈夫かと聞いても、本当に大丈夫かそうでないかはわからないものだ。人は嘘をつくからだ。

 

私はそれがどうしても嫌だった。

だから料理の世界に没頭することで自分を保ててきたのかもしれないとさえ、思う。

 

今はどうだ。食材は今も嘘をつかぬ。だが人は、嘘もつくが隠すこともごまかすこともあるが、なあに、人はただ生きているのだと思う。

 

その意味では食材と同じなのだ。

 

やがては死ぬ。腐敗してどろどろになり土に還るのだ。

 

競馬でジョッキーがこんなことを言う。馬と話ができれば良いのに、と。だが彼らはそれでも馬と生きている道を選んで今日も馬に跨り、言語的な会話はできないが、馬と自分との距離感の中であらゆることを洞察しているに違いない。

 

私もそうだ。食材と常に対峙している。人とは、対峙してこなかっただけなのかもしれない。

 

この歳になってようやくそんなことに気付く。人間関係が苦手だと思っていたのは自分の弱い心であって、苦手とか得意とかは関係ない、自分が他人との距離感をしっかり見通せず、他人との折り合いをつけることを避けてみたり、甘えてみたり、適当にあしらった結果として、自分が嫌な思いをしたことに対して、苦手だと勝手に思い込んでいただけなのだ。

 

食材なら何も言わないから、自分で考える。ところが相手が人間だから、どうしても求めてしまうじゃあないか。

 

食材と人とは、実は同じなのかもしれない。ほんの少しでもいいから、ちゃんと観察して耳を傾けるだけでも違ってくるのだろう。

 

それをしない人はいつまでも子供のまま、動物のままなのだ。