道脇裕という人。
NHKのプロフェッショナルという番組で、出ているのをたまたま見かけたので、眠いのを押して見てしまった。
そもそも去年か一昨年くらいにこの人の存在については知っていた。一般にはあまり知られているのかどうか、と思っていたが、プロフェッショナルに出るくらいなのでやはり耳目を置かれる存在なのだろう。
緩まないネジを作った人だ。しかも、ネジの螺旋構造を作り変えるという、案外思いつきそうで、誰も思いつかなかったもの。
どれだけの研究をしてきたのかと経歴を見れば、学歴は無い。東大工学部でもMITでもなく、中卒ですらないのだ。
小学校五年生で、社会のレールを降りている。
記憶の限りはそれでも、両親が学者だったように思う。
もちろん、素地はあったのだ。そういう意味で、非凡な才能は生まれながらにして持っていたのだろう。
問題は、それをどう使うかということだ。
この人が仮に小学校でドロップアウトせず、それなりの学歴を経て、社会に出ても普通の人より成功的な人生を歩んだのではないか、と私は思う。だがきっと、緩まないネジを発明することはなかっただろう。
非凡な才能は、平凡な社会に包まれることで、開花することはなかったかもしれない、というひとつの可能性だ。
なぜ、そう思うかと言うと、私自身も小学校五年、六年という時期が、ひとつの人生の起点、分岐点だったからだ。
道脇氏は小学校五年で、社会を見限った。このシステムに乗ってしまっては、自分の個性が無くなる、という理由で。
恐らく道脇氏と私は同世代なので、この世代に生きた人で似たような思いをしてきた人は一定数存在しているのではないかと思うし、今の若い世代はもっとそういう気持ちを抱えて生きているのではないかとも思う。
日本社会は成熟し、平凡は底上げされた。一億総中流と呼ばれる社会になり、義務教育で一般教養は共有され、文化水準も上がった時代に、私は幼少期を送った。
そこには戦中戦後の貧しさを生き抜いてきた、逞しいが野性的で下品とも呼べる民度の低い大人たちの、理想と現実が常に矛盾を伴いながらの氾濫していたのだ。
理想的な教育環境が整えられ、常識や価値観というものが宗教的にではなく統一、共有されつつも、旧態依然とした国民性やその弱さ脆さも数多く残っていた。
それが悪いと言いたいのではない。それはきっとどの時代にも当然だ。ガリレオの時代、天が動いていることを誰もが疑わなかった。誰かが証明し、それを誰かが認め、共有されて初めて、それが真実として受け入れられていく。
その過程で起きる誤差によって、多くの人の命が失われたり、多くの人の心を傷付けたり、多くの人がすれ違い、掛け違えるのはそれもまた自然なことであると私は思う。
だが多くの人はそれを受け入れようとはしない。
誤差に気付かないし、それを見ようともしないから。
小学校高学年のとき、私は達観していた。世の中のことを総てわかったような、ある種の勘違いをしていた。
それは純粋な意味では、いまでもそれほど間違っていないと思う。要するに世界の理というものは恐らく、至極単純明解で、それなりの教育水準があれば、小学生でも理解できるようなことなのだ。
だが、社会というのはそういう風にできてはいない。
小学生でも理解はできるだろう。だがそれを実現することにかかる犠牲や労力というものを測り切れていないのが、若さということだと思う。
私は疑い深い性格でこの世に生まれてきた。坂口安吾は堕落論の中で、処女性に対する信仰を説いた。誰もが何らかの信仰を持つことで生きているのだと。
そう言われてみれば確かにそうだ。
科学も宗教も、家庭や親子や結婚や、仕事や社会や友達や、お金や相場やギャンブルというものが全て、何らかの形で信仰の対象になっている。
それを信仰しているという意識があるかないかは個人差もあるとして、皆、何らかの信仰を対象にして生存している。むしろ、そういう根拠のない生は、人間には少ないと思われる。むしろ人間はすべからく、信仰心を持たないはずはないと私は考える。
自然崇拝から始まり、人は何かにすがって生きている。それくらいの弱い存在なのだ。人間だけが、恐らく生存競争の自然の世界で、自分が食われる存在になることを嫌だと強く思っている。
動物も嫌だろうとは思っているが、人間ほどではないので、生存競争の過程で淘汰されることに疑問は抱いていないのだろう。彼らにはシンプルに生きるか死ぬかしかない。
人間は生と死の間に自我という中立がある。自分で考え、独立し、社会というものを形成し、お互いに存在を認め合い、助け合うことで人間という種を存続させることができる。
だが、その知性が逆に、人を破滅に向かわせる。動物なら選択するはずはない、自殺という概念である。
道脇氏は小学生で社会の引いたレールを外れる。そして19歳になって、改めて自分の人生を考えたときに、そのレールがどういう意味を持っていたかに気付く。そして、自動車の事故でネジの可能性に発想をひらめくのだ。
それまで社会と乖離していた自分の個性が、そうやって何かのきっかけを通して、社会との道を、接点を見つけていく。
その過程では必ず人は死ということに向き合わざるを得ない。社会との繋がり無くして、人の個としての存在は無意味だからだ。強烈な個性としてのバイタリティがない限り、無意味でしかない。
それは、教育水準が成せる業なのではないかとこの頃思う。宗教は強烈だ。人の心を吸い寄せ、浄化する。純粋な理念を、人の原動力に直接リンクして、生死という概念も超えて、人を動かしていく力を持つ。
ところが教育にはそこまでの力はない。相対的だからだ。宗教は絶対的な存在である。絶対的な物のほうがわかりやすく、簡単だから、人はそれを受け入れやすい。
だが教育はそうではない。社会というものが存在することの意味と、その中で人間が実現していくべき理想への可能性というものを証明していく過程なのだ。
科学にはまだまだ未知の分野、不確定の部分も多い。
だから人が生きる意味なんて本当のところ答えがない。だから人生は皆、思い悩む時期が誰しもある。
その、思い悩むことこそ人間の本質だと思う。
そして、思い悩んだ末に、死ぬくらいの覚悟で社会の外に出た人間こそが、初めて世界を俯瞰できるのではないかと思う。
世界を見た気になっている人、知っているつもりになっている人が多いが、それは知識の断片に過ぎない。何故なら、現実的にそれを全て見ることは不可能なのだ。
世界を俯瞰できたとして、それが世界を知るということではない。だが少なくとも、世界の大きさを知ることはできるのかもしれない。
私は小学生のときの世界を達観して知ってしまったような勘違いをした。そして17歳で信仰心を捨てた。その時初めて、信仰心のない世界で生きる恐ろしさと絶望感を知った。
信仰の対象がない人生など有り得ない。昨今は無神論者でさえ、神のいない世界を危惧している。信仰のない世界とはつまり、無秩序なのだ。
私はそのとめどない世界の片鱗、深淵の絶望感を一般の人よりは知っている。だが、代わりに信仰すべきものを、なかなか見つけられなかった。
今は、随分歳を重ねて、ようやく自分なりの信仰があることに気付いた。
私は恐らく、全てを疑い、全てを失っても残るかもしれない何かを信仰しているのだ。それは結局、自分の中にあり、誰かの中にあり、社会にもあるものだ。
絶対的でありながら、非常に相対的な存在である。
私はそれを神のように崇めることはなく、とはいえ貶すこともない。相対的なので、自分が持っているものが失われても、また別の何かが取って代わることができる。
私にはたまたま料理があった。道脇氏にはネジがあった。道脇氏の方がピンポイントで、私はもっと漠然として曖昧だが、無味蒙古でもない。
皆それぞれ、何かを持っている。それは比較すれば、何らかの差異は出てくるものだ。
それでいいのに、と思う。
そして、それをどう使うか、どう広げていくか、どう実現していくか、そういうことに時間を使うべきだ。
私は私。他人は所詮他人。だが、他人は必要な存在で、誰かのために何かをすることで、私は同じように必要とされるはずだ。
だから私は生存する。
ただそれだけのことに価値を見いだせないとすれば、まだ世界はおろか、自分のことすら見えていないか、見ようともしていないのである。
私はそう思う。