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社会契約と説明責任

最近、知り合いの経営者さんと話していると「料理だけできてもそれだけではダメだよねぇ」という話題になった。

 

確かに最近は、教育の底上げがある意味では地道な成果を上げているし、インターネットによって知識へのアクセスもハードルは下がっているので、逆に言えばごまかしが効かない時代になったと思う。

 

つまり、美味しい料理が作れるだけでお店が上手くいく時代では無くなったということだ。

 

それは個人的には10年より前から痛感していることなのだが、何故改めてそういう話が他の飲食業界の人との会話で出てくるかと言えば、これはスタッフの教育問題に繋がってくるわけで。

 

もちろん、料理は美味しく作れるように教えなければならない。料理が不味い飲食店に、わざわざ足を運ぶ人は少ないからだ。

 

だが、社員や店長クラスともなれば、料理だけが秀でているからと褒められない事情がある。

 

ところが料理というのもこれは地味な作業の積み重ねであり、現場仕事という観点から言って、垣根の低さからもあまり頭の良い人間はこの仕事を選ばないこともあり、必然的に土方と似て、体力仕事であり技術職であり、職人的なプライドが必ず問題になってくる。

 

当然、そういうプライドも大事なのは確かだけど。

 

飲食店を運営していく上では、料理よりも大事なことというのは山ほどあったりもするわけで。

 

俺はちゃんと料理作ってんだろ!という考え方で来られると、非常に厄介な出来事というのは多い。

 

もちろん、自分が若い頃はそういう考え方だったし、そういう職人さんが生きてこれた時代だったから、それで正しかった部分もあった。

 

バブル期というのは基本的にカネがあった。沢山人を雇えるだけの売上があったのだ。今はそうではない。料理にも創意工夫が求められ、コストパフォーマンスやリスクマネジメント、顧客満足度、店の外観内観、サービスのフィードバックなどあらゆるジャンルでそれなりのハードルをクリアしないとやっていけない時代になった。

 

カネがないからだ。作る側にも買う側にもカネがないので、双方シビアな現実の前で取捨択一を要求されるのだ。

 

買う側は、それほど美味しくなくても、値段や雰囲気がそこそこよければ良かったりする。そこに売る側が、いやこんな味では料理とは言えないと説いてみた所で煙たがられるだけなのだ。

 

そういうことをどうやって教えていけば良いのかと常日頃から思うのだが、やっぱり私のような人間は基本を大事に思うので、社会契約というところから入ってしまうのである。

 

あなたの仕事とは何ですか、ということから考えると、料理だけ作ってれば良いと言う結論にはならない。

 

労働も社会契約であって、店で飲食することもひとつの社会契約。君が美味しい料理を作れても売れないなら意味が無い。そういうことを丁寧に教えて行く必要があるのではないかと思う。

 

美味しさというのは所詮自己満足なのだ。だが、社会契約としての労働は、求められる相手からの要望に答えるというレスポンシビリティが不可欠だ。

 

その要望の枠が広い方が、多くの客を集めることが出来る武器となるわけであって、より多くの客を満足させることが売上を維持し、上昇させることに繋がっていく。

 

この五年くらいか、説明責任という言葉が濫用されるようになった。自己責任という言葉も良く見る。

 

だが日本人は責任を取ることが苦手な人種だと思う。責任を明確にせず曖昧に濁すことが文化である日本人がこの数年責任という言葉を多用するようになったのは面白い。

 

だが同時に、結局良くわからずに濫用しているだけ、という面もある。

 

日本人が等しく義務と責任を行使できる日は来るのか?と常々思っているが、やはりそれは自分自身にも教える立場である以上、後進に伝えていかなければならないのが理と考える。

 

で、大体が日本人が責任という言葉を使うのは、自分に責任がない場合に限られている。国会の議論でそれなのだから、次の都議会選挙で自民党が36%の支持を得る予想に対して民進党が2%しかないというのも、納得の結論である。

 

責任と義務は等しく果たされるべきだ。そして、それに伴い等しい対価も得られなければならない。

 

社会契約とは何のためにあるかと言えば、不平等な搾取や不自由から人間の尊厳を守るためである。

 

権威や権力のために個が犠牲とならぬために、最初から平等な条件を提示して、双方合意のもとで契約を結び、それを行使することでお互いの利益と尊厳を保つのである。

 

こんな基本的なこともわかってないので、権利ばかり主張して責任は取らない輩が増える。

 

権利の主張の前に義務や責任を果たしているのか、ということを考えるためには、社会契約という概念から教えていくしかない。と思うのである。

 

義務教育でしっかりそういうことを教えて欲しいよ。大学出たってそんなことわかってない奴多いし。ルソーは18世紀に社会契約論を説いたのにそれから200年以上も経って、まだ世界は未熟だ。

 

だがそれに辟易する暇は、俺にはもう無い。