絶望的な夢を見た日の朝は
絶望の深淵で夢を見る。
若い頃はそれが自分の人生だと思っていた。奈落の底はすぐそこにあって、気を許せばそこに落ちてしまう。だが、その深淵であっても夢を見ずにはいられない。
情緒不安定で好奇心に満ち溢れた青春時代だった。
今考えるに、この絶望の深淵というのは若き自分が作り上げた恐怖と臆病であった。
奈落の底とは、まだ知らぬ物事の深奥である。
恐怖が臆病を呼び、物事を深く知ろうと思い至らない。
これが若さの弱みであろう。
若さとは恐れを知らぬことであると言う。もちろんそれもなるほど妙味はある。だが、この年になると恐れる事も然程ないことも事実。
絶望の深淵は具現化して三途の川のような体力の衰えとして眼前に横たわり、夢を見る事ができる時間の残り少なさを思うばかりだ。
確かに若い頃は恐れを知らぬ。
恐れを知らぬとは、世間を知らぬということだ。
世間を知らぬから恐れを抱く必要も無い。世間を知れば、自分が周りからどう評価されるか、どんな落とし穴が掘られているか、鬱病患者が右肩上がりに増えていくように、絶望の波紋は広がる様に思えるものだ。
だが果たして本当にそうなのだろうか。
知識と知恵と、経験と学習を積み重ねて、北の国から打ち上げられたミサイルをも撃ち落とせるシステムが組めれば、恐れる必要も憂う必要もない。
私にはミサイルを撃ち落とす技術は無い。
だが、今でも夢を見ている。
そこは絶望の深淵ではなく、知識と経験に裏付けられた、確固たる自我の独立性の上に聳え立つものだ。
若さを取り戻したいなどとは思わない。
むしろ、前進しかない。