百万円の女たちという漫画
夜中にドラマを何気なく見ていて、なんだこれ?と思って調べてしまった。
百万円の女たち、という漫画。
私は本も漫画もほとんど読まない。読まないと言っても、習慣的でないというだけで、全く読んでいないわけでもないが、家に置いてある本は料理関係の本や雑誌が主で、漫画もあるにはあるが、恐らく世間一般のそれよりは少ないという自負がある。
若い頃はそれなりに読んだが、もう20歳を越えてからというもの、どんどんネットが進化してくれているので紙媒体を手に取ろうという気になれない。
だから、百万円の女たちも、漫画で全て読んだわけではない。
ドラマを見ていて何となく理解し、漫画は無料の立ち読みで、あらすじは他のサイトで説明されていたのでそれで大体わかった。
そういう、ちゃんと読まずに批評するようなやり方が褒められるべきではないことなのはわかっている。その上でこの記事を書いているわけだが、
最近はもうこんなので金になる時代なのか、というのが率直な感想だ。
ライトノベルが流行った頃に、本屋で手に取ってみて驚いた。小学生向けの本かというくらい内容が薄い。
漫画も、せめてどちらかはちゃんとしていればわかる。絵が上手いか、ストーリーが巧みか。そういうものが求められない時代なのか。エンターテイメントは、所詮大衆の暇つぶしのための消費文化に過ぎない時代なんだろうか。
主人公は小説家。謎の女たちとの生活。主人公は自分の小説では人を殺さないと決めているらしい。だが、主人公の周りの人間は殺されていく。脈絡のない人間関係と、繋がりのない他人同士の話。無理矢理、繋げているだけで、背景も何も無い。登場人物はそれぞれに個性的過ぎて、突拍子もない展開とその割に淡々とした主人公の性格は、それが何をオマージュとしているのかもよくわからない。
私が理解できないだけなんだろうか。荒唐無稽ですらある。
刺激があれば何でも良いのだろうか。耳目を集めるためなら何をしてもいいのだろうか。それともそれは通過点で、成長を皆が期待しているのだろうか。
そういうものを拾い集めないといけないくらい、この世界はコンテンツに飢えているのだろうか。
それならばそれでもいい。逆に、それで成立しているのだから非難のしようもない。ただ、それを選ばないというだけのことだ。
ネットの世界ではどんどん、普通の人が発信する時代になった。自分もくだらない文章をこうして上げている。インスタを見れば写真に溢れ、You tubeを見れば沢山の動画がある。テレビを見ていても、もうそこにおもしろいものがなく、むしろネットの方がまだ、おもしろいものに出会える可能性があるんじゃないかと思える。
きっと今はそういう過渡期にあるのだろう。既存のシステムから、ネットで直接的に世界中の人々から取捨択一される新たなシステムの中で、それは競争なのか共有なのかわからない状態が続いている気がする。
人工知能のニューラルネットワークと、この現代の情報共有ネットシステムは、少し似ているような気がする。しかしそれはきっと原始的なものなのだ。これが進化の過程なのだろうと思う。
確かに凄い人はいる。恐ろしく頭が良いとか、とんでもない技術を持つ人と言うのはいるものだ。それだけが本物と言うことは簡単だ。だがそんな人は一握りしかいない。
それ以外の人はどうするのか、ということだ。
インターネットをすべての地球上の人々に行き渡らせることは可能なのだろうか。そのとき世界はひとつになるだろうか。それとも世界は終わるのだろうか。
インターネットが知の共有を目指してそれを実現するとき、既存の社会のシステムは変化せざるを得なくなる。
パラダイムの変換もそう遠くない未来なのではないか。言語の問題もきっと、すごいスピードで解決されていくだろう。わざわざ英語や中国語を覚える必要はない。必要な表現が必要な形で共有されていくのだ。そういう時代が来てくれなければ困る。
あらゆる言語が混合して、新たな言語として共有されていく。あらゆる知見が、必要な形で提供されていく。その過程で、貨幣や信用取引や、仕事や生産や管理や教育が、どう変化を迫られるのか。まだ想像することも難しいが、恐らくそれが人工知能の結末に対する答えと同じものだろうと私は思うのだ。
人工知能の行く末に不安を抱く人は多いだろう。ニューラルネットワークの中で学習を重ねても、その過程はもう人間の手を離れてしまう。ブラックボックスと化した人工知能の思考は、コントロールしたい人間にとっては恐怖に違いない。
だがそもそも、人間だってそういう生き物のはずだ。自分たちが生きる為の行動が、自分たちの首を締めてきたことも少ないわけではない。
そうやって人間は知恵をつけてきた。
そして人工知能はもっと、遥かに人間よりも膨大な情報から正確な答えを導くことができる。目的さえ間違えなければ、人間よりもきっと失敗しないような気がする。
だから今こそ人間は手を取り合うべきなのだ。必要な人と必要なだけ、感情を共有して生きていくべきなのだ。
問題は、それを目的として理解をして、新しい世界のシステムを受け入れる人がどれくらいいるのかということだ。
その実現にあと何年、何十年、何百年かかるだろうか。
俺が生きているうちに、そういう時代になってくれれば良いのに。