料理人と信仰

信仰というものをどれだけ理解している人がいるだろう

 

そもそも、日本人に信仰はあるのか?

 

自我が目覚めた頃から、いやそれ以前からきっと、一種の生きにくさを感じながら、それは違和感として、劣等感として、時には怒りややり場のない気持ちとなって自分を動かしてきたような気がする

 

人は、何かを信じて生きている

 

もし信じられるものがなければ、人は明日が来ることさえ待ち望めないだろう

 

だが社会とは、信用で成り立ちながらも、ごく当たり前にそこに存在している、空気のようなものだ

 

それを疑わない人は、そもそも初めからそれを信じているということだ

 

それが悪いことではないと思う

 

私は疑いを持ってこの年まで生きてきた

この年になってもなお、疑いを忘れることはない

 

ありとあらゆるものを疑い、自分でさえもその俎上に上げない日はないと言って差し支えない

 

疑いを持たない人からすれば、それは非常に生きづらいと思われるかもしれない

 

事実、その通りだと思う

 

何故、疑う必要があるのか

 

そんなことを考えてみたとしても自分には意味がなかったのだ。私には疑うことこそ生きることであって、疑いを持たずに手ぶらで歩いていくことなど考えもつかなかった

 

そしてずっと抱えている生きづらい気持ちを、なんとかごまかそうと生きてきた側面も否定はできない

 

どうやったらそこから逃げられるのか、どうやったら疑わずに気楽に生きていけるのか

 

あらゆることを試し、あらゆるものを傷付け蔑ろにし、自分もさることながら他人をも巻き込み破壊し、幾度も拒絶され拒否し、幾度も認められながら幾度も手放し、絶望の果てに希望を見出すような繰り返しの中で

 

辿り着いたのは結局信仰だった

 

私の信仰はまだ自分自身を取り込むまでには至らぬ

 

だがおそらく半分くらいは取り込んでいる

それでいいと思う

 

変化の余地は残しておかねばなるまい

確固たる信仰を備えることが人間の最たる幸せとは思わないからだ

 

この変化に富む秩序の中に生きている我々は弱く脆いことを理解しなければ成立しない

 

もし変化せず恐れることもなく疑うこともなければ、それはもはや神と呼ばれて差し支えない

 

だがそんな人間はどこに存在するだろうか

我々は不完全であるがこそ美しい生き物である

 

だから疑う

不完全なものは常に疑われることを代償として変化をし続ける自由に満ち溢れている

 

その幸福に気付かないものは虚しく

その可能性を信じない者は幸福にはならない

 

信仰とはそういうものだ

 

私は世の中に受け入れられないことに苦しんだのか

それとも世の中を受け入れられないことに苦しんだのか

 

私は信仰の無い自分自身を疑い続けた

だから世の中のあらゆる信仰を疑った

 

そして自分を殺し続けた先に

ふと初めから伸びているはずの一本の蔦を見つける

 

そうか私は結局それを手にしたいがために

 

信仰とはそんなものかもしれない

それは常識と呼ばれたりもするだろう

 

明日が変わらずに来るという保証は本当のところどこにもない

刹那を信じて生きていける人はきっと少ない

 

だが明日はやってくる

寝ていてもやってくる

 

刹那の祈りが明日に届くことを信じる力

 

それはどのように担保されるのか

 

社会主義でも民主主義でも達成されないだろう、人間の本来の自由は、信仰にこそ担保されると思う

 

何を信仰するかということだけだ

私は料理人で良かった

 

私は人間より料理の世界で生きてこれた

そして料理から人間を学んだ

 

今持っている信仰の根本部分は、料理を通して形成された

 

私は自分の料理を疑わない

疑う部分もあるが

それは自分ではなく他人であり食材に対してだ

 

私は自分の手が自分の料理を作り出すことを疑わない

どうやってもそれは私の味になるからだ

 

それに気付いた日から私はきっと幸せだ

あとはその幸せをどう維持していくかのことだ

 

私の信仰は疑うことで維持されてきた

だが私の作るものは疑いようがない

よって私の信仰はもはや

疑いを持ってして揺るぎようのないものとなった

 

これが恐らく私の生きるということだと思う