インフルエンサーとseishiro

朝方、出勤の傍らでYou tubeを見る日がある。

 

考え事を抱えているときは音楽すらかけないことも多い私の車内だが、朝は道も混んでいるので、気を紛らわすように何かの映像を流している。

 

乃木坂46のインフルエンサーという曲。

 

もう初老も近付くと音楽に対して目新しい感動は生まれない。そういう意味ではアイドルポップスを産み出し続ける秋元康という人がまず凄いなと思う。

 

インフルエンサーとは、消費者行動にまで影響力を持ちうる人物に対する言葉であるらしい。

 

曲はどこかで聴いたことのあるような、ラテン、ヒスパニック、ジプシー、歌謡曲を取り入れたような、ポップスらしいもので、衣装は黒さのある青を基調としてスタイリッシュでクールな雰囲気にまとめている。

 

何より注目したのは、踊りだ。おニャン子時代から比べたら、近年のアイドルの踊りは複雑になった。

 

横に揺れながら手を動かすだけの80年代アイドルは、もはや見るのすら恥ずかしくなるが、それを基礎にしてアイドルの世界はここまで進化したのだな、と思う。

 

インフルエンサーの踊りは、自分が若い頃に流行ったパラパラのコンテンポラリー版とでも言うか。

 

誰がこれを振り付けたのかなと調べたらseishiroというダンサーとわかった。

 

私はダンスというものには縁もなければ興味もさほどないが、表現という意味では学ぶべきものが多くある。

 

最近注目したのは宝塚と都をどりだ。

共に歴史があり、文化としての側面を大いに持っている。

 

この2つに共通しているのは、大人数が舞台で踊るという点である。宝塚の場合は宝塚歌劇団が、都をどりは八坂女紅場がその母体となり、踊り手を育成している。

 

どちらも商業として成立していて、エンターテイメントである。

 

その意味では、AKBや乃木坂も、この序列に加えてもおかしくはない。歴史が文化がどう評価するかは別として。

 

なぜそこに注目するかと言うと、つまりは素人の女の子を、エンターテイメントの表現者として成立させるためにかかる方法論とポイントが気になるわけである。

 

宝塚歌劇団の場合は、はっきりとした競争社会があるだろう。学校に入るまでも狭き門であり、そこからトップスターになれるのはごくわずかな人達だ。

 

都をどりは、もっと風俗に寄り添う形であろう。競争もあるだろうが、をどりが出来なくても、茶屋で頑張ればよいという芸娘もいるだろうし、皆が皆完璧な舞踊ができなくとも、文化的な意味あいも強いだろうから、許される部分もあるのではないか。

 

アイドルはもう少し立ち位置が曖昧だ。消費される最先端の文化にいながら、いつ消え行くともしれぬ我が身を案ずる暇もなく、中途半端も許されない、しかし学校のような組織に守られているわけでも、エンターテイメントを極めたいという欲求だけでもなく、何百年続く歴史に裏付けを得ているわけでもない、刹那の道化なのである。

 

それが、インフルエンサーではとんでもないダンスをさせられている。

 

いや、否定的な意味でなく素直に凄いなと思った。ーもちろん、seishiroのダンスを見たら乃木坂のダンスなんて何の比較にならないのは一目でわかる。

 

問題はいかにしてseishiroが乃木坂のために振り付けを考え、商業主義と迎合し、若きアイドルの女の子達のために噛み砕き妥協しながら、どこまでダンサーとしてのプライドも捨てなかったか、ということだと思う。

 

これは非常に重要な部分であると思う。

 

何かを伝える、教える、育てる。どこを削り、何を残し、どう繋ぐか。

 

いろいろな分野のプロがいる。一人ひとりの努力が全体として形になるためには、それぞれをつなぐものも重要で、ひとつひとつのピースの見極めも必要になるし、置く位置も戦略性が重要で、動かしてみなければわからないことも多い。

 

企業ならひとつのプロジェクトにある程度の人数もかけられるだろう。

 

でもきっと、そういう単純な時代では無くなっている。

 

だってアイドルにさえ、このレベルの表現力が求められる時代になっているのだから。

 

私は料理を通じて、何を伝えるべきなのだろう。